語学留学について一言
- 2008/02/26(火) 10:37:40
私の教え子が今年の夏から海外に留学する。
語学留学には一体どんな効用があるのだろうか?
一つには語学力を高める効用。
もう一つには人生経験を増やす効用。
こんなありきたりの動機を私はしっかりと考えてみたい。
ただなんとなくでこの二つを理由に語学留学に走る人が多いのではないか?
確かに、とにかく屁理屈を言う前に何でも行動してみるのも学習のうちではあるが...。
語学力とは海外に行かなくては身に付かないものなのか?
私自身海外に留学の経験が無いので憶測の領域で述べるしかないがが、
私はある意味でyesだと考える。
人間が学習するためには、ある一定のベクトルからの情報の入力だけでは不十分である。
様々な方向からの学習、すなわち、視覚、聴覚、触覚などの複合的な感覚を通しての学習のほうがそうでない場合に比べて知識の吸収率はよい。定着度も違ってくる。理解の深さも違う。
海外において見る対象、食べる対象、聞くも対象、しゃべる対象、読む対象のすべてにおいて語学力を高める要素が満ち溢れている。
それらのほとんどにおいて自分の語学力が必要とされてくるからである。
語学力を高めるという一つの目的に対して様々な感覚に訴える機会が語学留学ということになる。
しかも、ネイティブがその土地での流暢な言語を日常的に話されているという空間に自分が置かれたとき、
その空間に行きかう情報に対してどうしても自分は能動的にならざるを得なくなる。
確かに、日本にある語学スクールにおいても語学力はある程度は身に付くのかもしれないが、どうしても日本語という保険が存在するので、
情報に対して受身になってしまうことが出てくるのではないか。
自分が自分の欠点を補おうとして、能動的に情報を求める延長線上に本当のスキルアップが待っている。
ところで、今私が述べた留学論には人間の弱さを前提にして展開されていることに気が付いているだろうか?
意思が強く、目的意識が強い、好奇心旺盛で、あらゆる情報に対して常に能動的な人にとって実は語学留学は不必要だ。
なぜならば海外で手に入らないものは日本でほとんど手に入るからだ。
手に入らないものは頼めばよい。
現地での文化の片鱗に触れたかったらインターネットでも得られる。
もっとさらにリアルなものを求めたときに、他の様々な手段が日本には大量に存在する。
日本で開催される美術館などでも土地の文化に触れることができる。
世界が形成されてから何年が経っていると思っているのか?
海外にある文化の破片は日本のあらゆる場所にちらばめられているではないか?
海外留学がいけないということを言っているつもりはない。
足元を良く見ずに、隣の芝は青く見えるがごとく、物事に囚われているとただなんとなくで語学留学をしてしまい、
結局語学留学をした割には身に付くものが少ないということになれば、無駄な費用と時間を消費するだけということになりかねないのである。
語学留学を親に薦められてただなんとなくでやろうとしている人はともかく、
自分の中に自分特有の哲学がないと、得るものは少ないということは意識した方が良さそうだ。
心に深く傷を負った週末
- 2008/02/25(月) 09:45:16
毎日次々と心が負傷しては回復するという繰り返しだ。
しかし、さすがに土曜日は堪えた。
あらゆる方向から心が傷つけられ、瀕死状態におちいった。
自分の無力さを再認識した。
そういう出来事を通して、自分の思い上がりと、真実との整合性を保つような宇宙の力学が働くのだろうか。
仕事帰りの電車の中では立っているのがやっとだった。
その原因となる問題が些細なことだと分かっていても負の感情になる自分に気が付いてますます心にダメージを負う。
まさに、負のスパイラル。
きっと人生のプロフェッショナル、仙人はそんなスパイラルとは無関係なんだろう。
きっとそういった知の巨人達にとってすべての問題は同じ平面上に常に配置されていて、問題の解決を阻害する原因となる「感情」がそれとまったくリンクしないような思考回路が出来上がっているのだろうか?
スターウォーズに登場するマスターヨーダのように、常に目の前の問題に対して冷静で、自分に飛び込んでくる感情をかき乱すようなノイズは、自分の中に進入せずにいるというような境地なのか?
私は常に日ごろからそんな境地にたどり着きたいと意識している。
しかし、なかなかそんな境地にはたどり着けていない。
努力に努力を積み重ねてやっとの思いでたどり着くものだから、そんな境地は尊い。
ということならば、まだまだ自分の努力が足りないだけではないか?
そんな境地に様々な困難を乗り越えて辿り着くと、そこには別の景色が見えるのだろうか?
すべての問題の根本にあるのはある境地に立った、いわゆる神のような存在に自分もなれるのかという不安だ。
とにかく、無力な今の自分にできることはそんな境地を期待して、様々なノイズと戦わなくてはならないのだろうか。
話を戻すと、
現に今現在土曜日に負った深い傷は癒えていない。
私の場合、その傷が仮想の思い込みのものが多いが、そうとは分かっていてもなかなかその傷から回避できる術はまだ身につけていない。
この仕事をし始めの駆け出しの頃は、様々な傷から強くなるためにはとにかく「経験」が必要条件だと思い、とにかく必死に耐えてきた。
ところが、5、6年経った今でも傷が付かないように振舞うことはなかなかできないでいる。
様々な圧力に押しつぶされないようにするには、見かけは嫌だと思ってしまう事柄に対して正面から取り組むしかない。
それを避けたり、回避したりしても常に自分の周りを徘徊するので、はじめから真正面から取りかかるのが効率が良いということは学んだ。
私を追い込む外圧や、思考を停止させるかのように見える様々なノイズは一見すると、自分を向上させるのを抑圧するものだと捉えやすいが、
それらがあるから脳が鍛えられるのじゃないか。
それらがあるおかげで自分の欠点を克服するための力が生み出されるというメカニズムが働く。
様々なノイズに対してしっかりとまずは何が本質なのかを見抜き、できるだけ自分にとって無価値なものは放置し、
一見すると嫌な事柄に果敢にチャレンジしていくしかない。
その先に様々な突破口が広がっているのだろうと期待することが今の無力な自分にできる精一杯の振る舞いなのか?
今日は半分自分の感情をそのまま書いたので、論理的でない文になってしまった。
まあよいか。
今日からまた一週間が始まる。
自分の目の前に対峙する問題の一つひとつに感情移入し、一生懸命に取り組んでいきたい。
まずは、その結果としてすぐに充実した夜を迎えることを期待する。
楽園の島
- 2008/02/19(火) 07:29:09
アイランドタイムズという映画を見た。
東京都青ヶ島を舞台にした映画だ。
ストーリーはありふれたものだが、その映画に登場する青ヶ島に魅せられていた。
前からあこがれている島の一つだ。
人口は100名少々。
4面は海に囲まれた東京とは思えない楽園だ。
そういった楽園にあこがれるのは私だけではないだろう。
人はなぜ楽園の島にあこがれるのだろうか?
人間は他の生物に比べて、事実を本質から認識することと、思い込みをすることの2者をバランスよく行う。
いまこうして書いているブログにもある種の思い込みが混じっているのだと思う。
事実を100%の精度で語ろうとするには大変な労力と時間が消費される。
物事を他者に伝えるためには自分の経験値に従ったある程度の瞬発的な直感が必要となってくる。
これはこんな感じだという感覚をそのまま誰かにすばやく伝えるということを私は大切にしている。
物事は生ものなのでできるだけ早く伝えないと急激に鮮度が失われていく。
少し間違いが混じっていても、直感に頼りどんどん自分の考えを発信していくことが重要なのではないかと思う。
間違いが全くない、無菌の状態の情報を伝えなくてはならないと考えたとき、その情報が正しいかどうか常にびくびくしなくてはならないというストレスが生じる。
それに、遅い情報伝達により、自分の考えをどんどん発信していくことが困難になる。
自分が経験したことや学んだことは、発信して、客観的な批判や反応によって進化していかなくてはならない。
70%位の精度でも良いから、自分の考えをバシバシ発信し、観測者の反応から精度を上げていくというのが、自分の知識を加速的に発展することにつながる。
自然科学的な法則を検証する物理学実験においてはそういった立場をとらないとやってられない。
話を元に戻すと、人間は思い込みが多くを占める。
ということは当然だが、思い込みをしやすい空間に人が立たされると、思い込みがその人間を襲うということになる。
私は対象となる空間や物に「のりしろ」の部分が多いとその分だけ思い込みの余地が多いと考える。
何か物があふれている空間よりも、物が1つ2つしか横たわっていない空間のほうが人間の思い込み装置にスイッチが入りやすい。
物があふれているということはその物に対する情報があふれているということで、物を認識することが受身になりやすいからだ。
情報から受身になると物を考えなくなる。
逆に物が少ないとその物に対して能動的になり、様々な想像が掻き立てるように脳が起動する。
有名な美術作品にそれが当てはまる。
分かりやすい作品は、その作品からの情報がどんどん伝わってくるので、その作品に対して自分は受動的になりがちだ。
分かりにくい作品は情報が自分になかなか伝わってこないので、その作品に対して能動的にならなくてはならない。
つまり、想像力を掻き立てるのりしろの部分が多いので、そういう作品はいわゆる味わい深い作品として認識される。
学校でなぜ古典を学ぶのかが見えてくるだろう。
古典は分かりづらい。
だからこそそれを構成する文字の行間も読み取らなくては、文脈は把握できない。
美術作品と等価ののりしろがそこに存在する。
そういったのりしろから古典の美しさを学び取る訓練は中高生には必要なのだ。
同じ東京なのにまったく物のありふれ方が異なる小さなアイランド。
そこには渋谷、新宿のような情報が高密度に集中している空間とは対極にあり、空間に対するのりしろが多く存在する。
そうしたのりしろの部分に惹かれて私を含む多くの人が、そのアイランドに心惹かれるゆえんではないだろうか。
私が秘境駅が趣味なのは、私の中でそういった傾向が顕著だからだ。
中高生のときは別に古文・漢文に対してのりしろの要素を見出していたわけでなく、そこから美しさなどというものは感じなかった。
のりしろの要素は社会人となり後天的に理解していった。
それに伴って秘境駅が私の中に占める部部が多くなって行っただけのことである。
今年の秘境駅の旅に向けて今からそののりしろに対する想像を掻き立てることが楽しく、それが今の自分を支えるものとなっているのかもしれない。
あ〜早く夏が来ないかな。
と感じている今この瞬間の自分の感覚を大切にしたい。
赤ひげ
- 2008/02/16(土) 07:46:51
黒澤明監督の映画「赤ひげ」を見た。
素晴らしくて涙が出そうになった。
こんな美しい映画、最近ないなと思った。
将来医者を志す人にはぜひ見てもらいたい作品だ。
こんな美しい作品は、見ることで心の垢を少しでも取り除けるだろう。
画像が美しいだけ、登場人物の容姿が美しいだけ
という映画が大量に流通するようになってしまった。
赤ひげの元に研修医としてやってきた青年は、
はじめ赤ひげに反発する。
診療所には病にかかった人がごった返し、激務にもかかわらず薄給であり、
必死に学んだ高度な医学をこんなところで使いなくないと、不平不満を周りに撒き散らす。
その青年と入れ替わりで診療所から抜け出せるという研修医も、こんなひどいところを出られるということで、表情が明るい。
その青年は高度なオランダ医学を学び、このような診療所なんかで自分の能力を消費したくないと、赤ひげの言動の何もかもを否定する。
やがて、様々な出来事を通して赤ひげの人を思いやる姿勢に感動し、医学とは他のために尽くすものだということを徐々に達観していく。
あくまで自分のことにのみに心が囚われていた青年は、はじめに赤ひげに辛くあたったことにひどく後悔する。
私は医学部に行きたいと願う受験生に毎年指導し大学に送り込む。
しかし、残念なことに余りにも、自分の学習にのみに焦点を当てることに囚われ、他人を思いやることを全く知らない愚か者がほとんどだ。
自分のことしか考えない。
自分が使用した設備すら大切に使えない。
友達にすら思いやれない。
余りにも自分のことしか考えない者が多く、その程度がひどくなっているので、私自身の考えが間違っているのかという錯覚すら覚える。
大人がそうではないと子供を叱るが、たいていの場合、子供はそれを煙たがり、また説教か、としか捉えることができない。
正しいことを言われているのにそれが理解できないのだ。
つまり、子供のどんどん知能レベルが低下している。
そんな子供達には、理屈で分からせるしかない。
子供にとって、自分の考えを変えるための手段として、「理屈」という最後の砦だけだけしか残されていないのだ。
なぜ、利他的にならなければならないのか?
人間は考えた量と質に正比例しステップアップする。
考えた分だけ脳内の情報ネットワークが密になり、様々なアーカイブの蓄積がなされるからだ。
自分のことしか考えられない人間は、そうではない人間に対して思考対象領域が狭い。
思考対象領域が狭いということは、脳内の情報をネットワークするスピードも質も低いということだ。
自分のことよりも他の人のために尽くしたいと考えられる人は結局、思考対象領域が広いので、
たくさんものを考えるようになる。
結果的に勉強ができるようになり、周りに気を配れるようになるので、
逆に自分がピンチの時に周りが助けてくれるようになる。
自分の周りが必要なときにサポートしてくれる力学が働くようになる。
利他性。
それはDNAが人間に最初から搭載されていたということで、無意識に利他的に行動することが快感につながり、
単純に利他性を意識すれば必然的に何もかもがうまくいくようになるということを前に述べたが、
上記の理由によっても大切な概念だということがわかる。
できるだけ早い段階でそれに気が付いた人から、自分が幸福でいられる時間が多くなる。
このブログを見た子供の中で何かが変化し、利他的に考えられるように少しでもなってくれたら、
私も利他的行動に参加できたということになり、私自身の脳内の快感を感じる部分が刺激されて、
幸福なのだが。
快楽
- 2008/02/16(土) 06:27:38
私達は快楽を求めるように様々な行動が決定される。
快楽を無意識に原動力として頑張れる。
しかし、そうではない部分の重要性に最近気が付いた。
利他性。
自分のことよりも他の人のために動く。
そうした動きが結局自分のためとなる。
宗教的な主張はそれは理屈ではなく、行動を常に行うことだという。
それは一理あり、その通りだと思う。
科学的な理屈では、利他的に行動するDNAが先天的に人間に備わっているという。
他の人のために何かをすることで、快感を感じるように人間は作られているようだ。
ただ、自分のために何かをしたいという願望がそれよりも強いということだ。
どうやら人間100%を利他性で飽和した状態にはせず、
ある割合で利己性も創造したようだ。
あるいは、ある割合を一定に保つようなシステムを神と呼ばれる存在が創造したのだろう。
なぜならば利他性がより地球全体で広がっていくためには、
それが良い悪いという議論は別にして、
利己性を持った人間の存在がどうしても必要だからだ。
病気になったときに無菌状態にしても病気は長引く。
病気を治すための作用と、雑菌のバランスが取れていないとき、
病気は悪化する。
身近な人間の例のひとつひとつに当てはまる。
ぜひ、利己性に囚われている人に対して仁愛の精神で接し、
利他的に世を渡り歩きたいと私は思っている。
利他性だけでなく利己性もバランスよく自分の中で共存しなければと思うが、
難しいのは利己性を意識してしまうとき、
利他性の割合が少なくなるように、あるいは利他性が見えなくなるように人間は設計されているようである。
この点に十分注意を払い、まずは利他的な行動を率先して行うことが大事なのではないか?
と思うのだ。
よって理屈ではなく、行いありきだという宗教的な主張は正しいと思う。
以上


