楽園の島

  • 2008/02/19(火) 07:29:09

アイランドタイムズという映画を見た。

東京都青ヶ島を舞台にした映画だ。

ストーリーはありふれたものだが、その映画に登場する青ヶ島に魅せられていた。

前からあこがれている島の一つだ。

人口は100名少々。

4面は海に囲まれた東京とは思えない楽園だ。

そういった楽園にあこがれるのは私だけではないだろう。

人はなぜ楽園の島にあこがれるのだろうか?

人間は他の生物に比べて、事実を本質から認識することと、思い込みをすることの2者をバランスよく行う。

いまこうして書いているブログにもある種の思い込みが混じっているのだと思う。

事実を100%の精度で語ろうとするには大変な労力と時間が消費される。

物事を他者に伝えるためには自分の経験値に従ったある程度の瞬発的な直感が必要となってくる。

これはこんな感じだという感覚をそのまま誰かにすばやく伝えるということを私は大切にしている。

物事は生ものなのでできるだけ早く伝えないと急激に鮮度が失われていく。

少し間違いが混じっていても、直感に頼りどんどん自分の考えを発信していくことが重要なのではないかと思う。

間違いが全くない、無菌の状態の情報を伝えなくてはならないと考えたとき、その情報が正しいかどうか常にびくびくしなくてはならないというストレスが生じる。

それに、遅い情報伝達により、自分の考えをどんどん発信していくことが困難になる。

自分が経験したことや学んだことは、発信して、客観的な批判や反応によって進化していかなくてはならない。

70%位の精度でも良いから、自分の考えをバシバシ発信し、観測者の反応から精度を上げていくというのが、自分の知識を加速的に発展することにつながる。

自然科学的な法則を検証する物理学実験においてはそういった立場をとらないとやってられない。

話を元に戻すと、人間は思い込みが多くを占める。

ということは当然だが、思い込みをしやすい空間に人が立たされると、思い込みがその人間を襲うということになる。

私は対象となる空間や物に「のりしろ」の部分が多いとその分だけ思い込みの余地が多いと考える。

何か物があふれている空間よりも、物が1つ2つしか横たわっていない空間のほうが人間の思い込み装置にスイッチが入りやすい。

物があふれているということはその物に対する情報があふれているということで、物を認識することが受身になりやすいからだ。

情報から受身になると物を考えなくなる。

逆に物が少ないとその物に対して能動的になり、様々な想像が掻き立てるように脳が起動する。

有名な美術作品にそれが当てはまる。

分かりやすい作品は、その作品からの情報がどんどん伝わってくるので、その作品に対して自分は受動的になりがちだ。

分かりにくい作品は情報が自分になかなか伝わってこないので、その作品に対して能動的にならなくてはならない。

つまり、想像力を掻き立てるのりしろの部分が多いので、そういう作品はいわゆる味わい深い作品として認識される。

学校でなぜ古典を学ぶのかが見えてくるだろう。

古典は分かりづらい。

だからこそそれを構成する文字の行間も読み取らなくては、文脈は把握できない。

美術作品と等価ののりしろがそこに存在する。

そういったのりしろから古典の美しさを学び取る訓練は中高生には必要なのだ。


同じ東京なのにまったく物のありふれ方が異なる小さなアイランド。

そこには渋谷、新宿のような情報が高密度に集中している空間とは対極にあり、空間に対するのりしろが多く存在する。

そうしたのりしろの部分に惹かれて私を含む多くの人が、そのアイランドに心惹かれるゆえんではないだろうか。

私が秘境駅が趣味なのは、私の中でそういった傾向が顕著だからだ。

中高生のときは別に古文・漢文に対してのりしろの要素を見出していたわけでなく、そこから美しさなどというものは感じなかった。

のりしろの要素は社会人となり後天的に理解していった。

それに伴って秘境駅が私の中に占める部部が多くなって行っただけのことである。


今年の秘境駅の旅に向けて今からそののりしろに対する想像を掻き立てることが楽しく、それが今の自分を支えるものとなっているのかもしれない。

あ〜早く夏が来ないかな。

と感じている今この瞬間の自分の感覚を大切にしたい。