見えないものの存在(その1)

  • 2008/03/01(土) 09:13:07

人間の感覚を司るものに、味覚、嗅覚、聴覚、視覚、などがある。

ところで、人間はこの世の中のすべての要素、例えば、

物質、光、音、エネルギーなどをすべて感じることができるのか?

ということは証明できていない。

つまり、世の中を構成する要素は

人間が見たり、聞いたり、嗅いだりするものがすべてというわけではなさそうだ。

人間が感じられないものの存在の可能性がある。

人は見えないもの(感じること)に対しては意識が向きにくい。

見えるものは自分から働きかけなくとも、自分の領域下に入ってくるので、ある種のストレスを感じることなく受け取ることができる。

見えないものは自分から積極に働きかけなければならないので、ある種のストレスを感じないとならない。

音楽は楽に自分の聴覚に感知できる。

詩の行間は自分のすべての感覚を用いて読み取らなくては汲み取れない。

かわいい女の子は脳が動いてなくともかわいいと感じる。

かわいい女の子が実はもっているうちに秘めたものは、長い間付き合ってみないとわからない。

日本のわび・さびは他の国で理解されないことがある。



時代が進むに従って見えるものが多くなっている。

見えるものが多くなると、見えないものが影に隠れる。

見えるものと見えないものは表と裏の関係にあるからだ。

そうすると見えるものばかりに意識が行き、

見た目で一番楽しい、うれしい、面白いものを「選ぶ」ようになる。

(見えないものばかりだと、自分から「探る」ようになるのと対極にある。)

自分で考えなくとも、見えるものは勝手に自分の領域に入ってくるので、だんだんと人は考えなくなってくる。

では、なぜ見えないものが、(自分で考えるようになるためのきっかけということはひとまずおいておいて)必要なのか?

上記で述べた通り、世の中は見えるものと見えないものの二つに例外なく分類できるからだ(共通部分は両方に分類できると考える)。

世の中のある部分だけしか自分とつながっていなければ、

正しいこと、真理、などという正の領域から遠ざかるように自分は動いてしまうのではないだろうか?

正しいこと、真理は自分が見えない領域に存在するかもしれないからだ。

つまり、自分の目標と実際の行動のベクトルが全く逆なので、

努力しても報われないということがに起こる可能性が大きいということが起こる。

もちろん、努力しなければ報われることはないと、歴史が証明しているが。

世の中の動きはまさしく、正しいことから反対に動き出している。

現在では過去の遺産が反映されている時期だから、そう感じることは難しいのかもしれない。

しかし、私は近い将来、多くの人が負の方向に走り出していることに気が付き、それを正の方向に動かそうという世俗ルシャトリエの法則が起動するようになるとだろう。

つまり、見えないものに対する注目量が増加するようになるということだ。

今日は世の中の最も最先端の部分を斬ってみた。

非常に重要な部分なので明日も引き続いてみたい。