思索にふけるための環境

  • 2008/03/10(月) 10:35:03

3、4年ぶりに前に住んでいたアパートに行ってみた。

アパートの周辺に立ったとき、言葉では説明しきれない「何か」を感じた。

それは、懐かしいという感覚と、もう過去には戻れないという寂しさと、いつまでもこんなところにいるとだめになるぞという焦りなどが凝縮された「何か」であった。

アパートからの帰り道、大学や会社に毎日駅へ登校、出勤するルートをたどることで再び懐かしさが立ち上がってきた。

今思うと、それが日常のころはそのルートを歩きながら、いろいろな思索にふけた。たくさんのことを考えた。

研究発表はうまくいくだろうか?

試験は通るだろうか?

仕事がつらいな。

今日はこの戦術で乗り切ろう。

この論文は通るだろうか。

などなど。

そのルートから大学や会社に行くたびに、何か重要なヒントを多く得ていたような気がする。

しかし、今はそんなヒントを得るどころか、懐かしさなどが頭を飽和している。

よく、昔の大物詩人が思索にふけるたびにあるルートを通っていたという話を聞いて多くの観光客が、それにあやかろうと同じルートをたどってみるものの、何も思索にふけることはない。

ということと同じである。

実は今考えてみると私が趣味としている秘境への旅も同じことが言える。

思索を深めるために秘境の地に立ち、誰もいない空間で思索にふけろうとすると、まずはじめの2時間はそんなことはできない。

自分を取り囲んでいた環境とは違う風景に慣れるために脳は高速で動き、思索にふけることは忘れてしまう。

新しい環境に置かれると、ものすごい量の情報量が自分に入ってくるわけだから、それに脳が追われて、ゆっくりと集中できないからだ。

よく、旅とは自分探しのためのもので、自分を内面から見つめなおすのに非常によいということを聞くが、全く新しい所へ行ってもそんなことはあまり達成できないで終わるのではないかと思う。

旅に行くならいつも決まったところに行くほうが、かえって自分を見つめなおすのに役に立つのかもしれない。

普段は出ないアイデアを秘境の地で出ましたということはほとんど無かった。

結局のところ、今自分は旅に出ているんだ、すごいな、いろんな知らないことがたくさんあるな、という感覚を味わうことで、旅というものは終わってしまうことがほとんどかもしれない。

それを考えると、私も自分の固定された秘境を見出し、何年もそこに行くということも旅の方法の一つに加えてもいいかなと少し思った。

エントロピー=乱雑さをあらわす物理変数。乱雑さが高いとエントロピーも高い。熱力学第二法則によりエントロピーは最大になるように動くことが分かっている。

  • 2008/03/05(水) 08:32:03

すべてがうまくいく人がなぜいないのだろうか?

人は生きていると必ず悩みを抱えたり、壁にぶつかる。

人が取り巻く環境には必ず困難が待ち受ける。

困難さえなければ、すべての人がうまくいき、楽に人生がおくれるのにと誰もが一度は切望するだろう。

なぜ、人間は困難に囲まれなくてはいけないのか?

人間を作った創造主が神という存在ならば、なぜ、神はすべての人間を均等に楽に生きられるように初期設定しなかったのだろうか?

私の考えでは、この世の中を構成する集合として、宇宙以上のものがないとすれば、

結果論として宇宙というものが常に変化をしなくては存在できないものだからである。

常に星同士が衝突を繰り返し、星自身が崩壊したり、生成しているという事実から明らかである。

常に一定の出来事、成果が約束されている状態はそうでない場合に比べてエネルギー値が高い。

うまくいったり、うまくいかなかったりのブレンドはエネルギーが低い状態である。

そういった状態に向かうのは物理法則から考えると必然的である。

つまり、エントロピーが最大になるように物事は進行するのだ。

物単体が激しく運動する状態と、静止したり等速で移動したりする状態では前者のほうがもちろんエネルギー値は高い。

しかし、物の集合を考えたとき、すべてが激しく運動したり、静止したりした状態はエネルギーは高い。

あるものは激しく運動し、あるものは静止するというブレンド状態がエネルギーは低くなる。

つまり、すべての物体の状態の平均値の低い状態がエネルギーが低いと言えるのだ。

すべてがうまくいくとは限らない。

そういう空間に意識を持っている限り、そういったことを覚悟の上で今を生きなければならない。

また、そういったことが意識できている人とそうでない人の割合も一定であることも事実である。

すべてはうまく行くとは限らないとう性質をきちんと理解し、常にそれをゴールデンルールとして生きている人がうまくいく率が高くなるのだろうということは言えるだろう。


言葉の放つイメージ

  • 2008/03/03(月) 09:46:36

私はタバコもお酒もやらないんです。ギャンブルも一切やりません。

という言葉は皆さんの脳の中でどのようなイメージが立ち上がるだろうか?

根っからの堅物でガリベン野郎で、人生を楽しんでいないやつ

をイメージした人は言葉を普段から安易に扱っている人だ。

言葉が放つイメージの一端だけを捉えて、物事をすぐに把握しきってしまうという人は一定量存在するのが常である。

言葉とは自分が今まで体験・経験したことの積み重ねにより、イメージや意味の捉え方が形成されてくる。

言葉の放つイメージの一端だけを捉えて、これはこうだと決め付けてそれ以上考えないという姿勢は、これまでの自分の安易な考え方や知識の奴隷になっている証拠である。

考え方や知識の奴隷になるということは、これから新しい事柄を知っていくときに、一瞬の言葉から放つイメージだけしか吸収できないことを意味する。

言葉の放つイメージに囚われず、常に本質を見抜く習慣のある人は、そうでない人に比べて、人生に重みが増してくる。

この世の中は1、2次元のような単純な構造で構成されていない。3次元空間の中に、さらに多くの階層の構造が入り組んでいて、まさしく複雑な立体構造になっている。

言葉の放つイメージに囚われない人は世の中が複雑な立体構造に捉えられて、すべての局面において面白い!と感じることができる。

イメージに捉えられている人は、極端に言うとこの世の中が単純な構造で把握されており、人生の経過する時間だけを浪費している。

見えないものの存在(その1)

  • 2008/03/01(土) 09:13:07

人間の感覚を司るものに、味覚、嗅覚、聴覚、視覚、などがある。

ところで、人間はこの世の中のすべての要素、例えば、

物質、光、音、エネルギーなどをすべて感じることができるのか?

ということは証明できていない。

つまり、世の中を構成する要素は

人間が見たり、聞いたり、嗅いだりするものがすべてというわけではなさそうだ。

人間が感じられないものの存在の可能性がある。

人は見えないもの(感じること)に対しては意識が向きにくい。

見えるものは自分から働きかけなくとも、自分の領域下に入ってくるので、ある種のストレスを感じることなく受け取ることができる。

見えないものは自分から積極に働きかけなければならないので、ある種のストレスを感じないとならない。

音楽は楽に自分の聴覚に感知できる。

詩の行間は自分のすべての感覚を用いて読み取らなくては汲み取れない。

かわいい女の子は脳が動いてなくともかわいいと感じる。

かわいい女の子が実はもっているうちに秘めたものは、長い間付き合ってみないとわからない。

日本のわび・さびは他の国で理解されないことがある。



時代が進むに従って見えるものが多くなっている。

見えるものが多くなると、見えないものが影に隠れる。

見えるものと見えないものは表と裏の関係にあるからだ。

そうすると見えるものばかりに意識が行き、

見た目で一番楽しい、うれしい、面白いものを「選ぶ」ようになる。

(見えないものばかりだと、自分から「探る」ようになるのと対極にある。)

自分で考えなくとも、見えるものは勝手に自分の領域に入ってくるので、だんだんと人は考えなくなってくる。

では、なぜ見えないものが、(自分で考えるようになるためのきっかけということはひとまずおいておいて)必要なのか?

上記で述べた通り、世の中は見えるものと見えないものの二つに例外なく分類できるからだ(共通部分は両方に分類できると考える)。

世の中のある部分だけしか自分とつながっていなければ、

正しいこと、真理、などという正の領域から遠ざかるように自分は動いてしまうのではないだろうか?

正しいこと、真理は自分が見えない領域に存在するかもしれないからだ。

つまり、自分の目標と実際の行動のベクトルが全く逆なので、

努力しても報われないということがに起こる可能性が大きいということが起こる。

もちろん、努力しなければ報われることはないと、歴史が証明しているが。

世の中の動きはまさしく、正しいことから反対に動き出している。

現在では過去の遺産が反映されている時期だから、そう感じることは難しいのかもしれない。

しかし、私は近い将来、多くの人が負の方向に走り出していることに気が付き、それを正の方向に動かそうという世俗ルシャトリエの法則が起動するようになるとだろう。

つまり、見えないものに対する注目量が増加するようになるということだ。

今日は世の中の最も最先端の部分を斬ってみた。

非常に重要な部分なので明日も引き続いてみたい。