学校で多種多様な学習をする意味1
- 2008/02/14(木) 08:33:33
生命の維持には物質的な栄養補給が必要である。
特に知の発達が著しい人類は他の生物よりたべものの多様性がある。
ビタミンを取りたかったらレモンを100個ひたすら食べるよりも、レモン1個、レタス1/4個、にんじん1/2個、キャベツ1/4個...等を組み合わせて何かを作って食べたほうがビタミンの吸収は早い。(と、高校のときに唯一正確な知識として学んだ)
人間は栄養素を様々なベクトルから吸収しなければならないにDNAが設計されているのだ。
コミュニケーションの側面についてもも同じことが言える。
インテリと呼ばれる人ほど様々なベクトルのコミュニケーションを行う。
ある特定の人間としかコミュニケーションをとれない者は、必然的に淘汰されていく。
自分にはない知識や考え方を持った他者と行き交うことで、ある一定の方向から捉えていた(思い込んでいた)知識や考え方を、他の方向から捉えなおすことは、自己の成長に欠かせないものだ。
やはり、ある一定の狭い領域内だけの知識だけに囚われている人間には成長はありえない。
成長できないものは、淘汰される。
人間同士の比較論として考えると、成長できない存在は弱者の位置に追い込まれる。
他の生物ではその性質は、人間のそれよりも弱いような気がする。
つまり、人間が発展し、成功するためのキーワードは「多様性」なのである。
それを厳密に数理科学的に記述できる力は私にはないが、人間を取り囲むあらゆる側面を観測すると経験則としてそのことが言えるように思える。
常に何かを吸収したり、発展するには一つのことに囚われていてはいけないのだ。
しかも、一つのテーマについての知識や考え方を獲得するために、一見それとは関係のないものに目を向けることが重要だということだ。
一見関係ないテレビのワンシーンが、あることで悩んでいた問題の解答のヒントになることはよくあることだ。
味噌汁の味を研究している人にとって、カレーのおいしい作り方がヒントになることがあったというエピソードがある。
人間が感じたり体験する様々なものは視点を変えてみると違ったものに変化することは多い。
そろそろ、学校でなぜ自分の人生とは一見全く関係ない科目も勉強するのかが見えてくる頃だと思う。
特に脳の発展途上である中・高生は狭い領域の知識や考え方に囚われがちである。
中・高生の目の前に何の説明もなくただただ多量の科目が並べられれば、その学習に疑問を抱くのは必然である。
将来何の役にも立たない教科の学習には人間の理にかなった性質に基づいた上で考慮されたものである。
しかし、私の考えでは中・高生にそのことをしっかり分かってもらうために、ある時期に徹底的にそれを教育しなくてはいけないと焦る必要はないと思う。
人間はあることがらの様相が「見えてしまう」と、それに対して関心、意欲が薄くなってしまうようだ。
中・高生がある知識や考え方を加速的に獲得するために、「関心」「意欲」が触媒として不可欠だ。
多種多様の学習する必然性が完璧に分かってしまうと、逆にモチベーションが下がってしまうのではないかと考える。
なぜ多種多様の学習が必要かという最低限のヒントを提示し、議論する場を多く設けることで中・高生自ら気が付くように持って行くので十分だと思う。。
それにしても、自分の書いた文章が日を追うごとに学者のような文体になっていくのはよくないな。
今度から前向きに改善を検討す... じゃ、なく
今度からもっとやわらかく書くね!。
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