• 2008/02/11(月) 06:11:25

今年の秘境への旅は母島を考えていたが、帰ってこれなくなる危険性があるので断念。

いったん長万部まで特急で行き、今年こそ小幌駅に行きたいと思う。

小幌駅には独特のオーラを放つ聖域と聞いている。

その聖域に足を運ぶことに私自身大きな意味がある。

わざわざ北海道まで、安くない交通費を費やしていくほどの価値のあるものなのだ。

ネットを通してたどり着けない何かが、そこにはある。

それは小幌駅だけに限らない。

古代の知識人の多くが、本物に囲まれる重要性を指摘している。

場の力には、人間がある物体に接触してなくとも影響される作用がある。

大学もそうだ。

ネット上で大学で学ぶ知識のほとんどが得られる。

だから大学は存在意義を失っていく方向にいくかというとそうでもない。

大学という物理的な場所にはやはり場の力が作用するからである。

大学という場に囲まれながら何かを学ぶことには大きな意味と効果を持つ。

それを頭ではなく、体で理解しようと、

今年も私は日本の聖域に足を運ぶ。

はたから見ると無駄の多い作業だが、

人間の体験するすべてのことに無駄はないことを証明したい。

分かりにくいものの存在意義

  • 2008/02/11(月) 00:43:24

分かりやすいものを求めるように人間の行動は向かう傾向がある。

教科書は分かりにくい。

パソコンの取り扱い説明書は分かりにくい。

大学の専門書は分かりにくい。

よって、

より分かりやすい参考書はないか?

だれでもすぐにわかるようになるパソコンスクールが流行っている。

専門知識がだれでもわかるような本はないか?

という動き(現象)が出る。

人間の脳は嫌なものを避けようとする性質を持っているからである。

なるべく、難しいことを考えることなく、簡単にすぐにわかるようなものに思考回路が動くのが世の中の大半の人ではないか?

しかし、なるべく分かりやすいものに走る人はそうでない人に支配される運命にある。

自分の脳にできるだけ負荷をかけ、分かりにくいものに対して粘り強く向き合う人間が、そうでない人に優位に立てるという現象は、見えるところと見えないところの両部分に起きている。

例えば、勉強。

自分で考えようとはせずに他人や分かりやすい参考書に頼ろうとする傾向のある人は、自分で徹底的に考え、脳に負荷をかけ続ける人よりも絶対に成績は悪いはずだ。

必死で頑張って勉強したのになかなか成果が出ない。

それは、結局のところ、脳に負荷をかける量が少なかっただけの話だ。

分かりにくいものに対して人は群がらない。

分かりやすく、一見美しく、楽しい感覚を放っているものに人は群がる。

分かりにくいものに向かおうとする人間には、あらゆる局面において成功するチャンスが広がっている。

街を歩いていて、多くの光景に対してそのことを強く感じる。

一見美しいオーラを放っているものに対しては注意が必要なのだ。

初めてのブログなので私の貴重な写真を載せました。

  • 2008/02/11(月) 00:12:04

五能線からの風景。